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山陽道――道が結んだ八つの国、陸と海の歴史

古代の行政区画から西国街道へ。京と大宰府を結んだ山陽道を、駅家、瀬戸内海、そして備前の地形から読み直す。

倉敷市真備町川辺の旧山陽道沿いにある現在の道路と家並み
倉敷市真備町川辺の旧山陽道(西国街道)沿い。2023年撮影。写真:エヴァンズの秘書/Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0。古代の路面を示す写真ではありません。

道は、土地と土地のあいだに引かれた線である。しかし、その線を誰が通り、何を運び、誰が維持したのかを考え始めると、一本の道は社会の仕組みそのものを映し出す。

山陽道(さんようどう)は、そのような道だった。都から西へ延び、備前を横切り、九州への交通を支えた。けれども、山陽道を「昔の幹線道路」とだけ理解すると、その半分を見落とすことになる。この名は道路だけでなく、いくつもの国をまとめる広い地域をも意味していた。

一本の道と、八つの国

律令国家の地方区分である五畿七道のうち、山陽道は七道の一つに数えられる。『延喜式』の段階では、播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八国が属した。

現在の地図では、おおむね兵庫県西部から岡山県、広島県、山口県へ続く範囲に重なる。ただし、旧国と現在の県の境界は必ずしも一致しない。旧国名をそのまま現代の行政区画に置き換えるのは避けたい。

ここで重要なのが、内陸の美作も山陽道に含まれていたことである。美作は713年に備前から分かれて成立した。幹線の駅路が通る国と、行政区画として山陽道に属する国は、同じ範囲ではない。「道」は、線であると同時に面でもあった。

備前・備中・備後、そしてのちの美作に当たる地域には、古代の吉備という歴史的なまとまりがある。山陽道は、何もない土地に国家が初めて秩序を与えたものではない。すでに人々が暮らし、地域の勢力が育ち、海を通じた往来があった場所を、新しい行政と交通の制度が結び直したのである。

なぜ大宰府へ通じる道が重要だったのか

山陽道の正確な成立年を、一年に絞って示すことは難しい。国土交通省の道路史も、古代の幹線道路の本格的な整備を天智・天武期、すなわち7世紀後半の国家形成の過程に位置づけている。道路は一度の命令で完成したのではなく、制度とともに整えられていった。国土交通省「時代別に見るインフラ整備」

この交通軸の西の要にあったのが、大宰府である。九州の統治と対外関係に関わる重要拠点を都と結ぶ以上、単に旅人が歩ければよいという道ではなかった。命令を送り、報告を受け取り、遠方の情勢を把握するための速さと継続性が求められた。

駅制の道路は大路・中路・小路に区分され、山陽道は最高位の大路とされた。ただし、大宰府までの全区間が行政区画としての山陽道に収まるわけではない。九州側では西海道の一部へ接続する。地域区分と長距離交通の経路を分けて考えると、「京と大宰府を結ぶ」という説明の意味が明確になる。国土交通省「古代の道」、相模原市立相模大野図書館の調査回答

駅家は、国家の連絡を支える施設だった

古代の駅家(うまや)は、現代の鉄道駅とも、江戸時代の宿場とも異なる。公用の使者が馬を乗り継ぐための施設であり、道路と一体になって連絡の仕組みを構成した。

国土交通省兵庫国道事務所は、山陽道における駅家の間隔を約16キロメートルと説明している。大路の駅馬は制度上、原則20疋とされたが、実際の定数には駅による違いがある。したがって、すべての駅に同じ数の馬が常にいたと考えるべきではない。兵庫国道事務所「兵庫の道 むかし」

馬がいれば連絡網が動くわけでもない。餌を用意し、世話をし、使者を迎え、道路を保つ人々が必要になる。都の政治を遠い土地まで届かせる仕組みは、沿道で暮らす人々の働きによって支えられていた。道の規模だけでなく、その維持の背後にある社会を見ることが重要だ。

備前では、川の渡り方が道を変えた

備前の山陽道を考える際、現在の国道2号や山陽自動車道をそのまま古代へ投影することはできない。古代・中世・近世では、道筋も交通の中心も変わっている。

岡山市の歴史案内によれば、古代の道は現在の赤磐市方面から牟佐で旭川を渡り、津高へ通じた。牟佐からは、現在の国府市場付近にあったと推定される備前国庁への支路が分かれていたという。中世には、この支路も道の再編に組み込まれていく。岡山市「中世山陽道」

東の入口に目を向ければ、現在の備前市三石は、船坂峠を越えて播磨へ通じる交通の要所だった。岡山県は三石城について、1333年に伊東大和二郎が山陽道を塞ぐ目的で築いたとされる城として紹介している。道が政治や商業を支える場所であると同時に、軍事的に押さえるべき場所でもあったことが分かる。岡山県「三石城跡」

川をどこで渡るか。峠をどこで越えるか。どの町や権力拠点へ向かうか。山陽道の歴史は、こうした具体的な条件を抜きに語ることができない。

陸の道の隣には、海の道があった

瀬戸内の交通を陸路だけで説明することはできない。平安時代の京と大宰府の往来には、淀川沿いの港から大阪湾へ出て、瀬戸内海の港を経由する海路もあった。図書館の調査回答では、文献に基づき、このような経路が整理されている。相模原市立相模大野図書館の調査回答

道路の重要性は、あらゆる物資がそこを通ったことを意味しない。大量で重い荷物を運ぶ海運と、人や公的な連絡を支える陸路では、得意とする役割が異なる。山陽道の脇に広がる海は、道を隔てる空白ではなく、もう一つの交通空間だった。

中世に古代の駅制が衰えたとしても、地域間の往来そのものが消えたわけではない。領主の支配、関所、港、市場の関係が変わり、人と物は別の仕組みで動き続けた。「駅制の衰退」と「交通の消滅」は、区別しなければならない。

西国街道へ――城下町を通る道

近世には、山陽道につながる幹線は西国街道、西国路、中国路などと呼ばれた。ただし、それは古代の道を単に改名したものではない。城下町の成立や沿岸部の発展に応じて、経路が組み替えられた。

分かりやすい例が広島である。広島市の説明では、もともと太田川河口の不安定な地盤を避けて北へ迂回していた道が、16世紀後半の築城と城下町の形成によって、城下を東西に通る経路へと変わった。河川や海の交通と街道が交わることで、町の位置づけも変わったのである。広島市「西国街道とは」

江戸時代の街道は参勤交代や幕府の公用交通を支えた一方、海上輸送とも併存した。重要な幹線だったという評価から、沿岸の米や特産物がすべて陸上を移動したと想像するのは正確ではない。交通の歴史には、道の格式と、荷物の量を分けて考える視点が必要になる。

神戸市中央区相生町にある西国街道の案内標
神戸市中央区相生町の西国街道の案内標。2005年撮影。古代の駅家や当時の道標を示すものではない。写真:Tomomarusan、Wikimedia Commons、CC BY-SA 3.0。原画像を使用。

道を読むことは、土地の関係を読むこと

山陽道を訪ねるとき、「古代から同じ一本の道が残っている」と考えるより、異なる時代の交通が重なっていると考えたほうが、風景は豊かになる。道標は何時代の交通を語るのか。目の前の道は国府へ向かうのか、城下町へ向かうのか。近くの川や港は、どのように関わっていたのか。

備前もまた、こうした関係の中にあった。都と西方のあいだに位置し、峠と川を抱え、瀬戸内海に開かれていた。その地理は、地域を外へ結ぶ条件であると同時に、往来を維持する負担や、軍事的な緊張を引き受ける条件でもあった。

山陽道とは、遠くへ行くための道であるだけではない。国家が地域をどう結び、人々が陸と海をどう使い分けてきたかを問うための、歴史の入口なのである。

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参考資料・画像出典

資料確認日:2026年9月27日。駅数・駅馬総数には提供資料間で記載の違いがあり、集計範囲を確定できないため本記事では総数を掲げていない。