日本 / 備前国・吉備・古代史・岡山

備前国 第一部――吉備から分かれた東の国

巨大古墳、国府、山陽道、塩と須恵器。古代国家の編成によって「備前」が生まれるまでをたどる。

山と瀬戸内海が接する現在の備前地域の航空写真
備前市片上地区の航空写真(2015年)。国土地理院、Wikimedia Commons経由。

「備前」は、現在の備前市だけを意味する名前ではない。かつて岡山県南東部の広い地域を占めた国の名であり、さらにその奥には、古代の有力地域「吉備」がある。

三部からなる本連載は、備前国を領主の交代だけでなく、川、道、港、農地、手工業が結びつく地域として描く。第一部では、吉備の首長たちの時代から律令国家の備前国成立までをたどる。

巨大古墳が語る吉備の力

古代の吉備は、畿内に並ぶほど大きな政治勢力を育てた。現在の岡山市、赤磐市、瀬戸内市周辺には、浦間茶臼山、湊茶臼山、金蔵山、神宮寺山、両宮山などの大型古墳が築かれている。

全長約190メートルの両宮山古墳は、旧備前国内最大級の前方後円墳である。巨大な墳丘は、一人の権力者の墓であると同時に、多数の人員、食料、道具を動員できた地域社会の存在を示す。

『日本書紀』には上道氏をめぐる大王権への反乱伝承が残る。物語をそのまま事実とはできないが、吉備の首長層がヤマト王権にとって無視できない相手だったことはうかがえる。6世紀には王権の直轄地や国造制へ組み込まれ、独立性の強い首長たちは国家の地方官的な地位へ再編されていった。

吉備が三つに分かれる

7世紀後半、吉備国は備前、備中、備後に分割されたと考えられている。「前」「中」「後」は都に近い順を表し、備前は吉備の東側、都に最も近い国だった。

713年には北部六郡が分離され、美作国が成立する。その後も東部では郡の設置と改称が続き、788年までに和気、磐梨、邑久、赤坂、上道、御野、津高、児島の八郡を基本とする形が整った。

国の分割は、地図に線を引くだけの出来事ではない。税をどこへ納めるか、役人がどこから派遣されるか、道路や倉庫をどこに置くかを決める国家的な再編だった。「備前」という地域は、この行政の網の目の中で生まれたのである。

国府と国分寺

備前国府は、現在の岡山市中区国府市場付近に置かれたと推定される。国司が政務を行い、税や文書、人の移動を管理する地方行政の中心である。

国分寺は現在の赤磐市馬屋に建立され、その遺跡は国史跡となっている。国府、国分寺、主要神社は、それぞれ政治、仏教、祭祀を担い、律令国家の地方支配を目に見える形にした。

しかし古代の国は、中央が一方的に支配する空間ではなかった。地方豪族、農民、漁民、陶工らの既存の社会を利用しなければ、税も交通も維持できない。国家制度は、土地にすでにあった力の上に築かれた。

山陽道がつないだ国

備前国は山陽道に属する「上国」とされた。古代山陽道は、都と大宰府を結ぶ国家の幹線であり、備前国内には坂長、珂磨、高月、津高の駅が置かれた。

道路を通ったのは役人と命令だけではない。物資、技術、信仰、情報も移動した。備前は畿内に比較的近く、瀬戸内海にも開かれていた。陸路と海路が重なることが、この地域の生産と文化を外へ運ぶ条件になった。

塩、鉄、魚、そして器

藤原宮や平城宮から出土した木簡は、備前から米、塩、鉄、魚などが中央へ送られたことを伝える。『延喜式』には絹、綿、塩、各種土器などの貢納も記される。

瀬戸内沿岸の干潟は製塩に適し、二つの大河川と平野は農業を支えた。山地は木材や燃料を供給し、粘土と火を扱う須恵器生産も発達した。備前は単一の特産物の国ではなく、海、平野、山を結ぶ複合的な生産地域だった。

7世紀日本の青灰色の須恵器
7世紀の須恵器フラスコ、キンベル美術館所蔵。写真 Wmpearl、Wikimedia Commons、CC0 1.0。

荘園へ向かう土地

8世紀以降、干潟や河口平野の開発が進み、中央貴族や大寺院の荘園が成立した。平安時代には鹿田荘、豊原荘、鳥取荘、金岡荘、野田荘などの大きな荘園が置かれる。

国府を中心とする公的な支配と、貴族・寺社の私的な領有は並存し、ときに競合した。河川が運ぶ土砂によって新しい土地が生まれ、その土地を誰が開発し、誰が収穫を得るのかが政治の問題になった。

古代備前の本質は、固定された国境よりも流れにある。川が平野をつくり、海が物を運び、山陽道が都へつなぐ。その流れを国家が行政区画として束ねたとき、備前国が成立した。

第二部「市場・港・刀・土」へ

参考資料・画像出典