備前市を歩く 前編――道と港と窯がつくった町
岡山県南東部、兵庫県境に接する備前市。備前・日生・吉永が一つになる以前から、人と物が行き交ってきた土地の成り立ちをたどる。

備前市を一枚の写真で説明するのは難しい。
伊部には窯の煙と煉瓦の煙突があり、片上には湾が深く入り込む。東へ進めば兵庫県境に近い三石へ、海沿いを行けば島々を望む日生へ、北へ向かえば山に囲まれた吉永へ至る。同じ市域に、陶芸の町、工業の町、港町、漁村、山里が隣り合っている。
現在の備前市は、2005年3月22日、旧備前市と日生町、吉永町の合併によって生まれた。面積は約258平方キロメートル。その約四分の三を山林が占める一方、南は瀬戸内海に開かれ、東は兵庫県と接している。
この前編では、まず旧備前市を中心に、道と港、土と火が形づくった土地の輪郭をたどる。後編では、日生の海、吉永の山里、そして旧閑谷学校を訪ねる。
市名より古い「備前」という名前
「備前」は、もともと現在の岡山県東南部にあたる旧国名である。したがって、備前市という行政区域よりも「備前」という名のほうがはるかに古く、広い歴史を背負っている。
近代以降の市域も一度にできたわけではない。片上と伊部が1951年に合併して備前町となり、周辺町村との合併を経て、1971年に三石町と合併して旧備前市が成立した。さらに2005年、日生と吉永を加えた現在の備前市が誕生した。
市の歴史を理解するには、行政区画を固定した地図として見るより、異なる来歴をもつ地域が幾層にも重なったものとして見るほうがよい。
山が迫り、道が土地を結ぶ
備前市では、平地が連続して大きく広がる場所は多くない。丘陵や山地の間を川が流れ、その細い谷と海辺に集落が生まれた。人の移動は自然に限られた通路へ集まり、そこに街道、鉄道、港が重ねられてきた。
古代には都と西国を結ぶ山陽道が通り、近世には三石と片上が宿場町として栄えた。片上は「方上津」とも呼ばれた港の歴史をもち、内陸と瀬戸内海を結ぶ出入口だった。近代になると山陽本線や赤穂線が敷かれ、現在は国道2号、250号、374号、山陽自動車道などが市域を横断する。
交通は風景の上に置かれた付属物ではない。どこで人が会い、何を運び、どこに産業が育つかを決めてきた、町の骨格そのものである。
伊部――土が器へ変わる場所
備前市を最も広く知らしめたものは、やはり備前焼だろう。中心地の伊部では、中世から甕、壺、すり鉢などの実用器が盛んにつくられた。釉薬を原則として使わず、長時間の焼成によって土と炎の表情をそのまま器に残す。薪の灰が付着して生まれる自然釉や、窯内の位置と炎の流れによる景色は、一つとして同じものにならない。
備前焼は、初めから鑑賞のためだけに存在したのではない。丈夫な日用品として生産され、港と街道を通じて各地へ運ばれた。美術と物流、作家性と大量の生活用具。その両方を含むところに、備前焼の長い歴史がある。
窯の町から工業の町へ
土と火の技術は、伝統工芸だけにとどまらなかった。
三石では、近世にろう石が見いだされ、明治期以降、耐火れんがの原料として利用されるようになった。耐火物は、製鉄所や各種の高温炉を内側から守る材料である。表からは見えにくいが、鉄鋼、セメント、化学などの基礎産業を支える不可欠な存在だ。
片上や三石を中心に耐火物工業が発達し、現在も備前市の製造業の中核をなしている。伊部の備前焼と近代の耐火物は、用途も生産規模も異なる。それでも、地域の土を見極め、高温を制御し、焼いた物に耐久性を与えるという点で、同じ土地の知識から枝分かれした産業といえる。
一つの名に収まらない町
備前市を「備前焼の町」と呼ぶのは間違いではない。しかし、それだけでは片上の港も、三石の工場も、集落を結んできた道も見えなくなる。
この町では、地形が移動を導き、移動が産業を育て、産業が新しい景観をつくった。山、谷、湾、街道、鉄道、窯、工場は、別々の要素ではない。人が土地の制約に応答してきた時間の層である。
そして市域を南東へ、あるいは北へ進めば、同じ備前市はまったく別の顔を見せる。海に生きる日生と、山間に文化を守る吉永である。
参考資料・画像出典
- 備前市「備前市の紹介」
- 備前市「備前市の統計(令和7年度版)」
- 備前市「日本遺産・日本六古窯」
- 備前市「耐火物産業」
- 『日本歴史地名大系』『日本大百科全書』『世界大百科事典』各「備前市」項(JapanKnowledge。利用者提供資料を参照)
- 主画像:備前市片上地区航空写真。国土地理院、国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」を基に作成。