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須恵器とは何か――朝鮮半島から備前焼へ、土と炎の技術史

青灰色の硬い器は、日本の焼き物をどう変えたのか。渡来した陶工、窖窯、古代国家、そして備前焼へ続く道をたどる。

7世紀に日本でつくられた青灰色の須恵器フラスコ
7世紀の須恵器フラスコ、キンベル美術館所蔵。写真 Wmpearl、Wikimedia Commons、CC0 1.0。ウェブ用に縮小。

青灰色の硬い器。その静かな表面には、日本の焼き物を根本から変えた技術革新と、海を越えて移動した人々の歴史が刻まれている。

須恵器は、古墳時代から平安時代にかけて生産された焼き物である。しばしば「備前焼の前身」や「備前焼のルーツ」と説明されるが、その関係は一本の線で単純に結べるものではない。

須恵器から備前焼への変化をたどることは、日本の焼き物が国家のためにつくられる器から、人々の日常を支える商品へ変わっていく過程を見ることでもある。

灰色の器がもたらした技術革新

縄文土器や弥生土器、土師器の多くは、焼成中に十分な酸素が供給されるため、粘土に含まれる鉄分が酸化して赤褐色に発色する。

これに対して須恵器は、丘陵の斜面などに築かれた窖窯――いわゆる「あながま」――で焼かれた。

焚口から煙出しまでがトンネル状につながる窯の中で、高温を保ちながら酸素の少ない状態をつくる。この還元炎焼成によって鉄分の酸化が抑えられ、器は青灰色や灰褐色になる。十分に焼き締まった須恵器は、土師器よりも硬く、水を通しにくかった。

色彩は装飾のために選ばれたのではない。灰色は、窯の構造と炎の状態が生み出した結果なのである。

海を越えてきた陶工たち

須恵器の技術は、5世紀ごろ、朝鮮半島から日本へ伝えられたと考えられている。初期の須恵器は、朝鮮半島南部、とりわけ伽倻地域の陶質土器と器形や製法の面で深い関係を持つ。

伝わったのは完成した器だけではなかった。

窯を築く知識、高温を維持する燃焼技術、粘土の選び方、器を成形する方法、そして生産を組織する仕組みそのものが、渡来した陶工集団によってもたらされた。

須恵器は「外国の器を日本人が模倣したもの」というより、人間と技術の移動から生まれた焼き物だったと考えるべきだろう。

初期の大規模な生産地として知られるのが、現在の大阪府堺市周辺に広がる陶邑窯跡群である。そこから須恵器の製法は各地へ広がり、数十年のうちに東北の一部から九州まで、多数の窯が築かれるようになった。

ろくろだけでつくられたのではない

須恵器は、ろくろによって整った形につくられた器として紹介されることが多い。ただし、すべての工程が現代の「水びき」のように、回転するろくろの上だけで行われたわけではない。

大きな甕や壺では、まず粘土の紐を積み上げて原形をつくり、叩きや削りによって器壁を整えた。その後、ろくろを使って口縁部や表面を調整する。複数の技法を組み合わせることで、大きさと強度を備えた器が生み出されたのである。

窯の建設から成形、焼成までには、専門的な知識と共同作業が必要だった。須恵器の登場は、新しい製品が増えたというだけでなく、日本に本格的な窯業生産の体系が持ち込まれたことを意味している。

大きな口縁と脚を持つ6世紀古墳時代の須恵器
大きな口縁を持つ6世紀古墳時代の須恵器、ギメ東洋美術館所蔵。写真 Ismoon、Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0。ウェブ用に縮小。

墓に供えられた器から生活の器へ

古墳時代の須恵器には、壺、甕、杯、高杯、器台など、さまざまな形がある。実用品も存在したが、古墳に納める副葬品や、儀礼に用いる器が大きな割合を占めていた。

なかには小さな人物や動物を付けた装飾須恵器もある。相撲、狩猟、乗馬、舞踊などを表したと考えられる像は、古墳時代の暮らしや儀礼を知るための貴重な手掛かりになっている。

飛鳥時代から奈良時代になると、須恵器の役割は変化する。古墳に供える装飾的な器が減り、杯、皿、盤、瓶など、食事や貯蔵に使用する器が増えていった。仏教の普及とともに、水瓶や鉄鉢形の器がつくられ、官衙や寺院では文字を書くための陶硯も使われた。

須恵器は死者のための器から、生きている人々の食事、行政、宗教を支える器へと広がっていったのである。

備前の寒風窯

岡山県南東部でも、古墳時代後期から須恵器の生産が始まった。

現在の備前市南部から瀬戸内市にかけて広がる邑久窯跡群には、多数の古代窯跡が残されている。そのなかでも寒風古窯跡群は、飛鳥時代から奈良時代に栄えた山陽地方有数の須恵器生産地として知られる。

寒風窯の製品には、高い成形技術を示す端正な器が多い。一部には、薪の灰が高温で溶け、表面に薄緑色の自然釉を生じたものもある。平城宮跡から寒風窯で焼かれた須恵器が出土していることからも、その製品が地域内だけで消費されていたのではないことがわかる。

当時の備前国は、須恵器を税として中央へ納めていた。古代の窯業は、自由な商品生産というより、律令国家の制度と深く結びついた産業だったのである。

須恵器は備前焼の祖先なのか

須恵器を備前焼の「祖先」と呼ぶことには、十分な根拠がある。

備前市伊部の南側では、古墳時代後期から須恵器が焼かれていた。飛鳥・奈良時代には佐山や寒風を含む一帯に窯が分布し、平安時代になると生産の中心が次第に北へ移動する。平安時代末には伊部周辺に窯が築かれ、そこで無釉の焼き物を焼く生産が続いていった。

しかし、須恵器がある日突然「備前焼」へ変わったわけではない。

備前焼の開始時期については、平安時代末とする見方と、今日の備前焼に近い赤褐色の器が増える鎌倉時代末から南北朝時代とする見方がある。平安時代末の伊部周辺で焼かれた製品は灰色が多く、外見上は須恵器に近いためである。

つまり、「どこから備前焼と呼ぶのか」は、窯業生産が伊部で本格化した時点を重視するか、現在につながる色や器形の成立を重視するかによって変わる。

須恵器と備前焼の間には技術と地域の連続性がある。しかし、両者の間には社会と生産目的の変化もあった。

国家の器から商品へ

古代の須恵器生産は、朝廷への貢納や官衙、寺院などの需要と強く結びついていた。ところが平安時代後期、律令体制が弱まるにつれて、それまでの生産と流通の仕組みも変化していく。

中世になると、焼き物は国家や一部の支配層のためだけではなく、人々の日常で使われる商品として生産されるようになった。

備前焼の甕、壺、擂鉢は、保存、運搬、調理のための丈夫な道具として各地へ流通した。装飾よりも実用性が重視され、壊れにくく、長く使えることが商品の価値になった。

須恵器から継承された高温焼成と無釉の技術は、中世の商品経済のなかで再編され、備前焼という新しい窯業へ成長したのである。

灰色の器の向こうにあるもの

須恵器は、一見すると簡素である。鮮やかな釉薬もなく、表面の色は灰色を中心としている。

しかし、その簡素さの背後には、窯の内部から酸素を減らし、高温を維持する技術がある。朝鮮半島から海を越えてきた陶工の知識があり、器を必要とした古墳、宮廷、寺院、役所、そして人々の日常生活がある。

備前焼は、この技術をただ保存したのではない。古代国家のための生産から中世の商品生産へ、灰色の須恵器から赤褐色の焼き締め陶へと、その意味を変えながら受け継いだ。

備前焼の炎を歴史の奥へさかのぼると、そこには須恵器の窯がある。

須恵器とは、備前焼以前の古い器というだけではない。それは、日本列島の人々が窯を築き、炎を制御し、土を産業へ変えるようになった、その出発点の一つなのである。

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