岡山はいかに形づくられたか
藤原氏の荘園から宇喜多氏の城下町、池田光政の教育政策まで、三つの時代を通して岡山の発展をたどる。

備前市は岡山県に属する。
ここでは、この岡山県について少し解説しよう。平安、戦国、江戸の各時代に活躍した人物を通して、岡山がどのように発展していったのかを見ていく。
平安時代――藤原氏と鹿田荘
平安時代、現在の岡山市南部には、藤原氏の荘園が置かれていた。この荘園は鹿田荘と呼ばれ、現在の岡山市北区大供本町から大供、清輝橋、岡山大学鹿田地区周辺にかけて広がっていたと考えられている。
鹿田荘は、平安時代の最高権力者であった藤原氏の当主が代々相続した「殿下渡領」の一つだった。瀬戸内海の中間地点に位置し、水運の拠点でもあったことが、この地が有力な荘園となった理由の一つだと考えられている。
藤原氏とは、日本の歴史上、最も大きな力を持った貴族の一族であるといえるだろう。
その始祖は中臣鎌足、のちの藤原鎌足である。中臣鎌足は、中大兄皇子――のちの天智天皇――とともに蘇我氏の中心人物であった蘇我入鹿を倒し、その後の大化の改新を主導した。
大化の改新とは、日本史上でも最も有名な政治改革の一つである。それを一言でいえば、豪族がそれぞれ大きな力を持っていた社会を改め、天皇を中心とする中央集権的な国家をつくろうとした改革だった。
西洋でいえば、ルイ十四世の時代に完成へ向かったフランスの絶対王政と、部分的には似ているかもしれない。ただし、両者をそのまま同一視することはできない。
フランスの絶対王政は、国王の父や祖父の時代から続いた中央集権化が行き着いた一つの到達点であった。一方、大化の改新以前の日本では、各地の豪族が強い力を持っていた。そこで、彼らが支配していた土地や人民を国家のもとへ組み入れ、天皇を中心とする政治体制へ移行しようとしたのである。
中臣鎌足は、天智天皇から「藤原」の姓を与えられた。彼の子孫である藤原氏は、やがて摂政・関白を輩出し、朝廷政治の中心を占めるようになる。
鹿田荘は、その藤原氏の当主が代々受け継いだ重要な荘園の一つだった。岡山の地は、古くから瀬戸内海の水運と結びつき、中央の政治権力とも深い関係を持っていたのである。
戦国時代――宇喜多直家と岡山城下町
中世の終わりごろ、現在の岡山市中心部には、港湾や市場に関係する集落が形成されていた。しかし、今日につながる城下町としての岡山が本格的に形づくられたのは、宇喜多氏の時代である。
宇喜多氏は、もともと備前国の有力大名であった浦上氏に仕える武士だった。しかし、宇喜多直家は戦いや外交、謀略を駆使して勢力を拡大し、ついには主君であった浦上氏から自立して、備前・美作の大部分を支配する戦国大名へと台頭した。
軍記物などでは、直家の家は一時衰退し、彼自身も苦しい少年時代を送ったと語られている。そうした物語をどこまで史実として受け取るかには注意が必要だが、直家の台頭に並々ならぬ苦労があったことは確かだろう。
天正元年(一五七三)ごろ、宇喜多直家は岡山城へ本拠を移した。家臣を城下に住まわせ、商人や職人を集めることで、岡山城下町の基礎をつくったのである。
その事業をさらに大きく発展させたのが、息子の宇喜多秀家だった。
秀家は天正十九年(一五九一)ごろから、現在の岡山城につながる大規模な城郭の建設に着手した。旭川の流路を変え、西国街道――旧山陽道――が城下町を通るように整備し、城下へ武士や商工業者を集めた。慶長二年(一五九七)には天守が完成し、城郭と城下町の形がほぼ整ったとされる。
また秀家は、領内で検地や新田開発を進めた。
現在の岡山市周辺には平坦な土地が広がっている。これは旭川などが運んだ土砂によって形成された沖積平野を基盤とし、その後、宇喜多氏や池田氏の時代を通じて、新田開発や干拓が繰り返された結果である。したがって、現在の平地すべてを秀家一人が埋め立てたわけではない。ただし秀家の城郭建設、河川整備、新田開発が、岡山を一大都市へ変える重要なきっかけとなったことは確かである。
直家の物語も起伏に富み、実に魅力的である。しかし、歴史上より広く知られているのは、その子の宇喜多秀家だろう。
彼の人生もまた直家に劣らず波乱に満ちており、その舞台はさらに大きなものとなった。まさに、栄光と没落の両極端を経験した人生だった。
宇喜多秀家――栄光と八丈島への流刑
秀家の幼名は八郎だった。「秀家」の「秀」は、豊臣秀吉から与えられたものとされる。その名の通り、彼の人生は常に秀吉とともにあったといえるだろう。
秀家が父の跡を継いだのは、十歳前後のころだった。当時、宇喜多氏は毛利氏との対立を抱えており、その行く末は安定していなかった。
しかし、羽柴秀吉――のちの豊臣秀吉――が中国地方へ進出して毛利氏と戦うようになると、情勢は大きく変わった。
羽柴秀吉は、政治と軍略の両面で天才的な能力を持ち、のちに天下統一を果たすことになる人物である。この秀吉の支持を得たことが秀家の幸運であり、同時に、後の没落へつながる原因ともなった。
秀吉の天下統一後、秀家は備前・美作両国と播磨国の一部を領有する大大名となり、豊臣政権の五大老の一人に加わった。
五大老とは、豊臣政権を支えた有力大名による最高級の政治的合議体である。徳川家康もその一人だった。
父の直家も備前・美作に大きな勢力を築いていたが、秀家は秀吉のもとでさらに領地と政治的地位を拡大した。大出世であったといってよいだろう。
しかし、秀吉の死後、その立場は急速に不安定となる。
豊臣政権から徳川政権へと移行する直接のきっかけとなった関ヶ原の戦いで、秀家は西軍の中心的な武将として徳川家康率いる東軍と戦った。
西軍は敗れ、秀家は領地を没収された。その後、薩摩へ逃れたものの、最終的には徳川方へ引き渡され、慶長十一年(一六〇六)、八丈島へ流された。
流刑当時、秀家は三十代前半だった。
八丈島での生活は決して豊かなものではなかったと伝えられる。秀家は明暦元年(一六五五)、八十三歳で島において亡くなった。実に半世紀近くを八丈島で過ごしたことになる。
その人生は、まさに波乱に満ちたものだった。
江戸時代――池田氏による統治
江戸時代も、岡山にとって極めて重要な時代である。名君の誉れ高い池田光政が、岡山藩主となったためだ。
関ヶ原の戦いの後、岡山は小早川秀秋によって統治された。
小早川秀秋とは、天下分け目の関ヶ原の戦いで、西軍から東軍へ寝返った人物である。彼の離反を契機として西軍側の崩壊が進み、徳川方の勝利につながった。
そういう意味では、先の宇喜多秀家にとっては、まさに因縁の相手といえるだろう。
しかし、小早川秀秋は嫡男を持たないまま慶長七年(一六〇二)に亡くなり、小早川家は改易となった。その後、岡山には池田忠継が入り、池田氏による統治が始まった。
ただし、池田光政が岡山藩主となったのは寛永九年(一六三二)である。それ以前、光政は姫路藩や鳥取藩を治めていたが、国替えによって岡山へ入った。
これは岡山にとって幸運なことであっただろう。池田光政という優れた藩主を迎えることになったからである。
戦国時代の宇喜多秀家が、時の権力者であった豊臣秀吉の強い支持を受けていたのに対し、池田光政は江戸幕府、とりわけ三代将軍徳川家光から厚い信任を受けていたといえる。
光政の「光」は、元服の際に徳川家光の名の一字を与えられたものである。
池田光政と教育
池田光政は、岡山藩池田家の初代藩主となった。
光政は非常に教育を重視していた。儒教を尊重したことで知られているが、今日、彼の業績として特に評価されているものの一つが、花畠教場を設けたことである。
花畠教場は、日本最初の藩校とされる教育機関である。光政は儒学者の熊沢蕃山を登用し、自身もその教えを受けながら藩政改革を進めた。
藩校とは、主に藩士の子弟を教育するための学校であり、藩が主体となって経営・運営していた。儒学が教育の中心だったが、時代が下るにつれて、医学、数学、兵学などを教える藩校も現れた。
しかし、光政の教育政策において最も特筆すべきものは、閑谷学校を創建したことだろう。
閑谷学校は、藩士の子弟だけを対象とする藩校とは異なり、主として地域の庶民を教育するための学校だった。寛文十年(一六七〇)、光政が津田永忠に命じて創建したもので、現在は「現存する世界最古の庶民のための公立学校」とされている。
光政は、これに先立つ寛文八年(一六六八)、領内に百二十三か所の手習所を設けていた。それらはのちに整理・廃止され、閑谷学校へ統合された。
これは、教育の対象を藩士という特権的な身分に限らず、地域の庶民へ広げようとする、当時としては非常に先進的な試みだった。
徳川政権が安定していたこともあり、光政は秀家のような激しい栄光と没落の人生を送ることはなかった。藩政改革と教育政策を進め、寛文十二年(一六七二)に隠居した。
ちなみに、池田光政の墓所は、備前市吉永町の和意谷池田家墓所にある。
岡山の発展
以上が、平安時代から江戸時代にかけての岡山の発展の歴史である。
ただし、岡山はもともと「貴族の荘園にすぎなかった土地」だったわけではない。鹿田荘は、瀬戸内海の水運と結びついた港湾都市的な性格を持ち、藤原氏の当主が代々受け継ぐ重要な荘園だった。
その古代以来の土地の上に、戦国時代には宇喜多直家と秀家が岡山城と城下町を築き、江戸時代には池田氏が都市と藩政を整備した。池田光政はさらに、藩校と庶民教育の制度をつくった。
こうした時代ごとの積み重ねによって、今日の岡山の礎が築かれたのである。
参考資料・写真出典
- 岡山市「鹿田庄と岡山城下町」
- 岡山市「宇喜多直家・秀家」
- 特別史跡旧閑谷学校「旧閑谷学校の概要」
- メイン写真:“Okayama Castle (Japan)” by Lynn0927、CC BY-SA 4.0。サイトのモノクロ処理を適用。
- 藤原鎌足像:“Portrait of Fujiwara no Kamatari”、作者不詳、パブリックドメイン。
- 宇喜多秀家像:“Ukita-Hideie-2”、作者不詳、岡山城所蔵、パブリックドメイン。
- 池田光政像:“Ikeda Mitsumasa”、作者不詳、林原美術館所蔵、パブリックドメイン。